生い立ち
668年、行基菩薩は、和泉国家原村(堺市西区)に誕生されました。この生家はのちに行基菩薩が改築され、家原寺となづけられます。家原寺には、今も行基菩薩の誕生塚がのこっています。
行基菩薩は15歳の時に出家されたと伝わります。若き日の行基菩薩がどこで修行されたかはわかりませんが、当時の都であった飛鳥を中心に修行されたであろうと思われます。『続日本紀』には「初め出家し、瑜伽唯識論を読し、即ち其の意を了す」とあり、法相宗の教義である唯識の教えを学び、よく理解されていたことがわかります。また伝記には24歳で金剛山の高宮寺で受戒したことが記されており、山中にこもって山林修行に励んでおられた様子が想像できます。
写真:薬師寺蔵『行基菩薩絵伝』出家修学 部分
生母への孝養
写真:薬師寺蔵『行基菩薩絵伝』生母孝養 部分
37歳の行基菩薩は、和泉にかえられて生家を改築します(現・家原寺)。このころの活動から、当時は禁止されていた布教活動や社会事業に対する意志がみえます。
40歳で行基菩薩は、生母の療養のために生駒山の東に生馬仙房という草庵をむすび、母と暮らします。介護看病に励まれますが、母は行基菩薩43歳の正月に亡くなります。行基菩薩は深い悲しみにくれられたことでしょう。生馬仙房は、行基菩薩の墓所である竹林寺と推定され、このことからも生母への恩愛がしのばれます。
行基菩薩の歌と伝わる歌があります。
鳴いている山鳥の声を聞いていると亡くなった父母が会いにきたか、と思いだされるという意味です。母とともにすごした山林での生活は、行基菩薩にとって思い出の時間であったのでしょう。
人びとのために
服喪をあけてからの行基菩薩は精力的に布教され、弟子や信者たちと和泉や大和に寺院を建立しました。当時の僧侶は『僧尼令』という法律によって制限され、寺院を勝手に建立したり、人びとに布教することは禁止されていました。国家仏教ともいうべき、この体制に背いたのが行基菩薩でした。行基菩薩と弟子たちの布教は朝廷の目にとまり、717年に元正天皇は、行基菩薩と弟子たちを「小僧行基と弟子等」と厳しく糾弾しています。
しかし、行基菩薩は布教をつづけ721年には、寺史乙丸から平城京右京三条三坊の土地を寄進をうけて、翌年には寺院を建てました。土地の名前から「菅原寺」と名づけられたこの寺が、現在の喜光寺です。喜光寺は行基菩薩開基の四十九院で唯一平城京のなかに造られた寺院であり、布教の拠点になった寺院でした。しかし、平城京内に寺院を建てたことで、行基菩薩は朝廷から再び糾弾をうけ、生まれ故郷の和泉にかえることになります。以後、聖武天皇にみとめられるまでは現在の和泉・河内・摂津・山城を中心に活動されています。
また行基菩薩は、寺院だけでなく、橋や港などの交通施設や、川や池のような農業施設を整備し、街道には旅人が安心して旅ができるように無料で宿泊できる布施屋を造りました。そして、必ずこれらの施設には仏様を祀り弟子たちが管理していました。
聖武天皇との出会い
724年に、元正天皇は譲位し聖武天皇が即位します。聖武天皇は行基菩薩の布教活動・社会事業に理解を示され、731年には行基菩薩の弟子に出家を許しました。行基菩薩は、すでに64歳になっておられました。行基菩薩と民衆の力は、聖武天皇の恭仁京や紫香楽宮の造営の原動力になったのです。
そんななか、743年に聖武天皇は、鎮護国家を願って盧遮那仏の造営を発願されます。時に行基菩薩は76歳でした。大仏造立の詔には「人、情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」とあります。盧遮那仏の造立を手伝いたいという者は、だれでも許せという言葉には、人びとによりそって活動された行基菩薩の教えがあるのです。
写真:薬師寺蔵『行基菩薩絵伝』聖武帝邂逅 部分
大僧正と菩薩
745年、聖武天皇は行基菩薩を我が国ではじめて大僧正に補任します。僧侶のなかの最高位になったのです。『僧尼令』に抵触するとして糾弾されていた僧侶が仏教界のトップにたったのです。それまでの国家仏教から民衆を救う仏教への大きな転換点でした。
しかし、行基菩薩にはもうひとつの称号がありました。それが「菩薩」です。『大僧上舎利瓶記』には「人は慈悲を仰ぎ、世に菩薩と称す」とあります。「菩薩」は仏様の称号です。つまり仏様のような方、という意味です。この称号は、権力者から与えられたのではなく、自然に人びとがよびはじめたのです。人びとの悲しみや苦しみによりそい、安らぎを与える行基菩薩を、人びとは仏様として尊敬していたのです。
喜光寺にて入寂
晩年の行基菩薩は、喜光寺から大仏造立の指揮に通われ、多くの時間を喜光寺で過ごされました。行基菩薩は最後の大仕事である大仏の完成を見ることなく病にたおれられます。聖武天皇は、病を気づかわれて喜光寺に行幸されたといいます。
749年2月2日、行基菩薩は喜光寺で最期を迎えました。『大僧上舎利瓶記』には「右脇にして臥(ふ)し、正念すること常の如く、奄(にわ)かに右京の菅原寺に終わる」とあります。右脇を下にするのは釈尊の涅槃と同じ姿であり、少しも心乱れることない最期であったことがわかります。行基菩薩82歳のご生涯でした。
悲しみのなかで弟子たちは、遺命にしがたって2月8日に生駒山東陵で荼毘に付し、遺骨は舎利瓶におさめて、行基菩薩の生母の墓所に埋葬されました。この墓所は鎌倉時代に発掘されて、西大寺中興の興正菩薩叡尊や忍性菩薩など当時の僧侶に影響を及ぼすことになります。行基菩薩の墓は現在も生駒山中の竹林寺(生駒市有里)に旧跡をとどめています。
写真:薬師寺蔵『行基菩薩絵伝』菩薩入寂 部分
行基菩薩のあしあと
行基菩薩はご生涯に多くの寺院、池や川、橋や港を整備されました。『行基年譜』によると四十九院とよばれる僧尼院に加え、15の池、13の水路や川、6つの橋、2つの港、9つの布施屋を整備されています。これらは畿内に造られたものだけで、諸国にはもっと多くの恩恵をうけた人びとがおられたと考えられます。
また興正菩薩や忍性菩薩をはじめ、平安時代の最澄や徳一菩薩などにも影響を及ぼしておられます。後世の僧侶たちは、行基菩薩の姿をモデルにして布教したのです。
平成10年(1998)の行基菩薩1250年御遠忌には、全国から行基菩薩ゆかりの寺院646ヶ寺があつまりました。行基菩薩の利他行は1250年をすぎた今日でも生きつづけているのです。真心から人びとを思い、悲しみや苦しみを癒やされた行基菩薩の教えを、現代をいきる私たちも学ばなければなりません。