「試みの大仏殿」と呼ばれる本堂(国重文)や、弁天堂、行基堂などがあります。創建以来1300年の間には、戦乱や災害で何度も失われ、何度も復興がされてきました。現在も、「行基さんの寺」としてよみがえるべく復興を続けています。
本堂(国重文)
■室町時代 正面五間 奥行四間 高さ17.1m
行基菩薩が東大寺建立に先だって、本堂を建立したという伝承から「試みの大仏殿」とよばれています。行基菩薩が寺史乙丸から寄進された場所が現在の本堂の場所であると伝わります。奈良時代の本堂(金堂)は明応8年(1499)に焼失し、天文13年(1544)に再建されました。縮小しての再建ではありますが、高さ17mの大きさは圧巻です。南側一間を吹きとおしにしている「南庇(なんぴ)」や「裳階(もこし)」といった建築技法は奈良時代を意識した復古建築の粋というにふさわしい建物です。一方で、上層の四方には連子窓をつくり、光を取りこむという新しい技法を用いています。春秋の夕暮れには西側の窓から夕陽がさしこみご本尊を照らす、素晴らしい風景にであえるかもしれません。
堂内には本尊 阿弥陀如来坐像はじめ観世音・勢至菩薩が祀られています。
南大門
南大門は、戦国時代 元亀年間の戦乱で焼失してしまい、創建当初の姿は伝わっていません。しかし、今も昔も奈良と大阪を往来する人びとをみまもりつづけてきた喜光寺にとって、南大門の復興は悲願でした。
「いろは写経」をはじめ、多くの方々のご結縁によって、平城遷都1200年にあたる平成22年(2010)に南大門落慶を迎えることができました。高さ12mの楼門の二層目には、ご結縁いただいた「いろは写経」が納められています。奈良の西の玄関口にふさわしい威容をほこり、正面の扁額には「喜光寺」の文字が輝いています。
南大門をくぐるとき、出迎えてくださる仁王像。南大門の落慶にあわせ文化勲章受章者 中村晋也氏により制作、奉納されました。大地を踏みしめ、人の悪心を憎む憤怒の姿は、門をくぐる人びとの心を清めてくださいます。
弁天堂
喜光寺の弁天堂は鎌倉時代に活躍された西大寺の興正菩薩叡尊上人が、鎌倉の江ノ島弁財天から勧請したと伝わります。弁天池のなかに建つ弁天堂には、江戸時代に造られたお前立ちの弁財天と眷属の十六童子が祀られています。正面の厨子には秘仏の御神影の宇賀神像が安置されています。現在は初詣と蓮の時期にあわせ、特別開扉しています。
初夏からは弁天池に睡蓮が咲き、弁財天に花を添えます。
行基堂
喜光寺を開かれた行基菩薩を祀ったお堂です。行基菩薩は天平21年(749)2月2日に喜光寺で入寂されました。行基堂は、行基菩薩の遺徳顕彰・報恩感謝を願い、平成26年(2014)に建立され、方形造りの堂内には行基菩薩坐像が安置されています。周囲には行基菩薩を囲むように千躰地藏が祀られています。
[千躰地蔵]
行基堂の内壁には、ご結縁の仏師の方々に真心を込めて彫っていただいた「千躰地蔵」を安置しております。お坊さんの姿をした地蔵菩薩は、人々を癒して歩まれた行基菩薩のお姿にも通じます。人々の心にある無数無量の願いを地蔵菩薩にこめて未来へ伝えるべく、永代供養の結縁をいたしております。お背中にはご奉納者のお名前とお願い事を書いて、ご安置申し上げます。
佛舎利殿
喜光寺創建1300年の記念事業として、令和3年に佛舎利殿が建立されました。堂内には皆様のご先祖さまをご一緒にお祀りする「千佛供養堂」が1080余室設けられ、永代供養いたします。
お写経道場
本坊には60畳ほどの広さの「お写経道場」があり、いつでもいろは写経を書写していただけるように準備しております。日常を離れて、心静かに文字とむきあっていただくことは、日々の心の安らぎを与えてくれます。
ご本尊釈迦如来のうしろには古くは白鳳時代から信仰されていた千佛をお祀りしています。この千佛は三重県の夏見廃寺より出土した塼仏をモチーフに金銅製で復元したお姿です。千佛の信仰を復興すべく千佛永代供養のご結縁を承っております。
會津八一歌碑
歌人の會津八一は、大正10年(1921)・11年(1922)に喜光寺をおとずれ、歌をのこしています。明治の神仏分離の影響で荒れ果てた寺の様子をみて、おおいに悲しんだ會津八一は、その思いを和歌にしました。奈良を愛した歌人の悲哀がにじみ出ています。
歌碑は平成22年(2010)に建立されました。
万葉歌碑
『万葉集』にのこる石川郎女の歌です。大海の水底のようにふかく愛しい人を思いながら、裳裾で道が平らになるほど菅原の里までかよいつめた、と昔を懐かしむ歌です。
歌碑は平成10年(1998)に菅原寺とよばれた喜光寺に建立されました。