菅原の里
喜光寺の歴史は古く奈良時代までさかのぼります。
喜光寺を中心とした地域は、古くから菅原の里とよばれ、和歌にもよまれた景勝地でした。『万葉集』にも「大き海の みなそこ深く 思いつつ 裳ひきならし 菅原の里」(石川女郎)と詠まれ、「菅原や伏見の里」は枕詞にもなっています。
この菅原の地は土師氏が住んでいた地で、後には菅原道真を輩出する菅原氏の住まいでした。また大阪と奈良をつなぐ旧奈良街道の北に位置し、交通の要衝として多くの人びとが往来する場所でした。
行基菩薩と喜光寺
養老5年(721)行基さんは、この地に住んでいた寺史乙丸という人物から平城京右京三条三坊の土地の寄進を受けられ、翌年にお寺を建てました。これが喜光寺です。行基菩薩は土地の名前から「菅原寺」と名づけられました。菅原寺(喜光寺)は、行基菩薩の建立されたお寺のなかで唯一平城京内にあり、行基菩薩の布教活動・社会事業の重要な拠点寺院となっていったのです。
本堂 菅原寺扁額
「菅原寺」から「喜光寺」へ
行基菩薩は聖武天皇に認められ、布教活動・社会事業にご尽力なさいました。そして人生最後の大仕事として取りかかられたのが東大寺大仏造立です。聖武天皇が行基菩薩に協力を求められた時には齢76歳になっておられました。
天平20年(748)行基菩薩が勧進と大仏造立に尽力するなか、聖武天皇が菅原寺に行幸されました。聖武天皇がご本尊をおまいりされたところ、ご本尊から不思議な光が放たれました。聖武天皇は大いに喜ばれ、「歓喜の光の寺である」として「喜光寺」の名を賜りました。
行基菩薩入寂の寺
天平21年(749)、行基菩薩は病の床につかれ、2月2日に喜光寺東南院にて入寂されました。82歳のご生涯でした。行基菩薩の略伝『大僧上舎利瓶記』によると「右脇をして臥し、正念すること常の如し。奄(にわか)に右京菅原寺にて終る」と記されており、安らかな最後であられました。行基菩薩は生駒山東陵で2月8日に荼毘に付され、埋葬されました。現在も竹林寺(生駒市有里)には行基菩薩の墓所がのこされています。
行基堂 行基菩薩坐像
叡尊と喜光寺
喜光寺は、行基菩薩亡き後、弟子たちが守っていたことがうかがえます。喜光寺には三綱所がおかれ、千手千眼観音悔過に用いる『千手経』50巻を喜光寺に施入されており、私寺でありながら重要視されていたことがわかります。
しかし、平安・鎌倉時代には世情の混乱にともない、喜光寺も荒廃してしまいます。鎌倉時代の建治元年(1275)、喜光寺を管轄していた興福寺一乗院門跡 信昭は、西大寺中興の興正菩薩叡尊に喜光寺の復興を依頼し、一方で一乗院門跡の隠棲地に定めました。叡尊は弟子の覚證房性海をつかわして、復興にとりくみます。弘安2年(1283)には喜光寺で大般若経転読が行われ、叡尊が法話をしたことが『御教誡聴聞集』に記されています。
また境内の弁天堂は叡尊が江ノ島弁財天より勧請したと伝えられ、ご神体の宇賀神像は興福寺から移されたと伝わっています。喜光寺は、近世まで一乗院門跡の隠棲地であり、現在も境内の西側には一乗院墓地がのこっています。
戦国・江戸時代の復興
明応8年(1499)、喜光寺を兵火が襲いました。創建当初の本堂はこの兵火で焼失したと伝わります。本堂は、住僧たちの尽力により、天文13年(1544)に建て直されました。
しかし、元亀年間(1570~73)に再び兵火に巻きこまれ、本堂をのこして楼門や経蔵、鐘楼など多くのお堂を失ってしまいます。また江戸時代にも鎮守の喜光寺天満宮(現・菅原天満宮)が焼失するなど、災難が続きました。
江戸時代中期には貫光戒月や寂照といった僧侶により本堂の修理や、天満宮の再建など、復興がすすみました。
江戸時代の喜光寺(図下に見えるのが本堂)
神仏分離と荒廃
明治元年(1868)、明治政府から出された「神仏判然令」は仏教に大きな影響を与え、一部では「廃仏毀釈」と呼ばれる排斥運動も起きました。残念ながら喜光寺も、僧侶が還俗して神職になったことをきっかけに、喜光寺と天満宮は分離され、喜光寺の文化財は売られてしまうという憂き目に遭いました。その後、修理復興もかなわず、明治・大正・昭和の時代は荒れ果てて廃寺寸前のありさまになってしまったのです。
大正10年に喜光寺を訪れた歌人 会津八一は荒廃した寺の様子を「ひとりきて 悲しむ寺の 白壁に 汽車のひびきの ゆきかへりつつ」と詠んでいます。荒廃しきっていた往時の姿がよくわかります。
明治〜大正ごろの本堂
平成・令和の復興
平成2年(1990)、山田法胤住職が就任し、行基菩薩の遺徳顕彰と伽藍復興を目標にかかげて「平成の復興」がはじまりました。平成4年(1992)からは「いろは歌」を書写する「いろは写経」の勧進を発願して、元亀年間に失われた南大門の再建をめざして各地をめぐって結縁をつのりました。行基菩薩はすべての人に開かれ、親しまれる寺院を造ることを志されました。その行基菩薩の精神にしたがい、復興を続けています。全国のお写経結縁の方々のお力添えで平成22年(2010)に南大門を復興することができました。また行基菩薩入寂の寺として平成26年(2014)に行基堂を建立、また令和3年には境内に佛舎利殿と青垣国定公園内に喜光寺有縁合祀墓を建立し、多くの方の参詣を賜っております。